古稀記念文集「あのころ万華鏡」発刊の報告



文集作成に携わって   古稀記念文集編集委員会委員長 増田 英男

  文集の編集、作成とは、かくも手間暇のかかるものなのか。正直なところ、かかることに門外漢である私は全く理解できていませんでした。原稿を集め、纏めて綴じれば一丁上がりといったイメージでいたのです。しかし、然るべく文集を仕上げるという作業は、およそそのようなものではありませんでした。七夕会幹事会で正式に事を決めてから発刊に至るまで1年余の間、編集委員会の作業は大変な量にのぼりました。

  編集長の仲倉君の指揮のもと、編集委員の大庭君、河野さん、村田君、阿部さん達がそれぞれの立場でその持ち味を生かし、全力をあげてその作業にあたってくれました。また、委員会のチームワークの良さも大きな力を発揮しました。この間の仲倉君の働きは、正に獅子奮迅、このたびの文集は彼の「渾身の一作」というべきものであると言えましょう。また、他のメンバーにとっても、その喜びや達成感は他に替え難いものがあったのではないかと思います。

  かく言う私といえば、立場上、編集委員長を引受けることになりましたが、例のとおりで、私が下手に手を出すと外の委員の足を引っ張ることになりかねませんので、実務は皆さんにお委せ、委員会の作業がスムーズに進むよう、何がしか必要な調整をするなど、若干のお手伝いをしたに過ぎません。ただ、かくなる私ではあっても、この作業に関与できたことに大きな幸せを感じています。

  尚、手元に届いた文集にあらためて目を通して思うことですが、ここには数多くの同期生の「高校、高校生活と私」についての思い出、エピソード、それに係る様々な想いが綴られています。勿論、その殆どが私の与り知らぬ事柄ですが、その様々な箇所にあの時代の自分自身を発見し、懐かしさと感動を新たにしています。この文集が、実は「私の高校時代の総まとめ」にもなっていることを、あらためて感ずるものです。

  また、私は、七夕会の運営を担う一員として、七夕会の事業、活動が、今後とも一人でも多くの同期生に支持され、喜ばれるものであって欲しいと考えています。その関係で、このたびの事業に、日頃、七夕会及びその活動に必ずしも縁のなかった多くの方々が原稿をお寄せ、文集作成費用のご支援をくださったこと、また、今回寄稿されなかった皆さんにもその発刊を大変喜んでいただけたことは、私に望外の喜びを運んでくれることになりました。



古稀記念七転八倒ノーテン記        編集長 仲倉 重郎

  5月28日の発送の翌日から、続々と感想が寄せられた。全部紹介したいけどスペースがないので省略。でも「一気に読み通しました」「贅沢でなく貧相でなく、小粋な感じ」「私の宝物になりました」などとうれしい言葉があふれている。カンパも続々。まず120人の執筆者に感謝。そしていろんな事情で執筆しなかったけどカンパを寄せられた方々の心遣いにも。

…というわけで、時間軸にそって編集委員会の七転八倒ぶりを振り返ってみることに。

  始まりは、去年の5月の幹事会。
5.6 七夕会幹事会で古稀記念に文集を発行しようと河野佳子さんが提案。
七夕会の一大事 業としてやることになり、ただちに編集委員会が組織される。
委員長は増田英男幹事長。七夕会の一大事業なのでこれは当然。だが、ぼくが編集長 とは、ちょっと誤算。
だけど面白そうなのでまあいいかと、ノーテンキに引き受ける。編集委員は、阿部光、 大庭慶雄、河野佳子、村田紘隆の少数精鋭。
5.17 第1回編集会議。連絡のつく会員全員に封書で呼びかけを送ること。文集のサイズは B5版とする。原稿が少ない時は、座談会や年表をつけることなどの意見が出る。
5.28 原稿募集の呼びかけ発送。
締め切り:8月末日。2000字以内。発行:来年4月1日。
6.13 早くも原稿第1号が届く。その後、続々。原稿は委員にメールで送付し確認しあう。
7.7 七夕会で古稀記念文集をアピール。
7.30 「締切迫る!」の催促状を、名簿係のメール担当に依頼して送信。
8.31 締切日。集まった原稿は76人。題名に「思い出」とか「懐かしい」とかは避けて,個性のある題名をつけてもらおうと頼む。ときには僭越にもいくつかの案を提示したが、快くきいてもらえた。ただし長すぎる原稿もあって、これにはちょっと往生。
9.2 名簿発送に合わせて、寄稿呼びかけを同封。しつこいぞ!
9.28 第2回編集委員会(会場:国立オリンピック記念青少年総合センター)。
この日までに99人。 これだけ集まったので、座談会はやめ、年表だけにする。
テーマ別にジャンル分けして全9章構成にする。版下作成を野辺真葵さんに頼む。
10.25 第3回編集委員会。寄稿者108人。
ついに大台を超える。 原稿校正の方針を話し合う。特に数字の扱い。また真葵さんから全体に文章が長く漢 字が多くて読みにくい。読みやすくするために改行を多くし漢字をかなに開いていい かときかれる。若い人にはそうだろうが、みんな若くないのでここは原文を尊重した いと伝える。ただし改行はある程度必要だろう。
11.25 第1章の組見本できる。こんな風になるのかと感激。真葵さんのセンスがいい。
12. 9 第4回編集委員会。増田委員長が椎間板ヘルニアになる。歩行困難なので、ぼくの縁 で練馬区の街づくりセンターで車椅子を借りる。 印刷を巧南社に決める。
そして、年が明けて、2012年。
1.12 第5回編集委員会。最後の原稿が来る。ついに、120人!
予算案検討、カラー口絵はやめることで予算を縮小。表紙は成瀬輝一さんに頼む(連 絡は大庭委員)。イラストの描き手を推薦しあう。昔の写真も集める。50周年七夕 会の集合写真を載せるためのトリミングを撮影者の内田徹氏に頼む。
年表に、2年の学園祭で上演した演劇の作者と演出を載せることにする。これが後々 大難事業になる。演題は「朝陽時報」に載っているが、それ以外は分からない。いろ んな人に協力をあおいだがなかなか判明せず。
2.1 七夕会幹事会。予算案を提示。目次見本を披露。
全貌が分かったせいか好評なり(と思う)。
2.6 ジャンル別を検討。8章に組み直す。イラスト続々とどく。
3.13 第6回編集委員会。イラストの配置、新予算案の検討。題名候補をあげて幹事に意見を求めたが、少なかったので編集委員会で決める。全員一致で「あのころ万華鏡」。イラストのスキャンは専ら大庭委員にお任せ。紙の地色が出ないよう何度もやり直す。
4.20 幹事会で新予算案(500部で総経費75万円)が承認される。
校正見本を回覧。文集の概要がわかったせいか評判よし。年表原稿もできる。
出典は「朝陽時報」。社会的事件は他の年表から。
5. 1 東天紅にて、成瀬氏と原画展の打ち合わせ。
5.11 完成原稿を巧南社にUSBで渡す。プリント原稿ではないのが現代的。
5.25 印刷見本届く。ついに発刊!
5.28 全員に1冊ずつ発送。呼びかけをしてから丁度1年目。
感想・カンパ続々届く。
6.18 編集委員会打ち上げ。野辺真葵さん、田畑房徳氏をゲストに招く。30代の若いシャープな女性がまじったので委員の心は大いに和む。  
7. 7 七夕会は、「あのころ万華鏡」の話題で和やかに大盛況だった。
7.18 朝陽同窓会に寄贈。また高校の図書室においてもらえることになる。
…というわけで、楽しく過ごした1年間だった。
表紙、イラスト、などの担当者たち
  そこで編集委員はじめ、表紙・イラストの皆さんにもひとこと書いてもらった。

河野佳子●オッペルと象
   「オッペルと象」のお話、知ってますよね。
  私は新宿高校という巨象の足の爪しか知らなかったのかな? 七夕会の仲間からは象の鼻の高みから眺めた、尻尾に乗って遊んだ等の話が漏れ聞こえてきます。落ちこぼれを自認し、悔悟の思いしかない高校時代、でも、良くても悪くてもこの高校時代は現在も自分の血や肉になっているはずです。もう古希にもなれば、足の爪だけの象ではなくもっと形のある立体の巨象を見たいと思いました。
  屋上の天文台? 木工室? 卓球台? 鼠? 街のお姐さん?  みんな私は知らなかった!
  でも、この古希のチャンスを逃してはならずと「言いだしっぺ」となったしだいです。

村田紘隆●別な高校生活がたくさんあった
  内容については編集作業で知っていましたが、予想していたものより立派なものでびっくり?しました。編集長の意向が反映し、表紙、イラストなども良く出来たと思います。でも、良く見たつもりですが、校正ミスなどがあり、編集委員として反省しております。
  読み返してみて、私の知らない別な高校生活がたくさんあったのだと認識を改めました。
  また、所属サークル以外の部活動、習わなかった先生の様子、3年間とも一緒にならなかった同級生の話…などなどとても新鮮な気持ちで読ませていただきました。イラストや写真を提供していただいた方々にもとても感謝しております。
  七夕会のメンバーの多彩な才能を知りました。

阿部 光●大台を超えていっそうの張り切り
  「何通くらい原稿集まるかなぁ!」「悪くすると5〜60かな、良くいけば、8〜90かな」
  最初の編集委員会で、交わした会話です。「すごいよ、もうちょっとで大台に乗るよ」そして、120通の原稿。素晴らしい表紙絵と、海外も含めて多数のイラスト提供、こんなに多くの協力が寄せられ、みんな張り切らないわけがありません。
  学園祭で、2Dがやった「海の星」の演出を誰がやったかわからない、思い出せない、と言ったら、編集長から「そんなバカな話があるか!徹底して調べろ、」と怒鳴られ(怒鳴ってませんよ…仲)、2Dの人に片っ端から電話をかけました。七夕会にも来た事のない人、言葉を交わした こともない人、みんなに恥を忍んで、訳をいいました。やっと見つけた時は、汗びっしょり、私のした唯一の仕事でした。
  出来上がった文集を見た瞬間、「すごい、素晴らしい、」感動でした。
  原稿を寄せて下さった皆さん、有難うございました。「ヤッター、バンザーイ!」   

大庭慶雄●最初に読める楽しみ
  寄せられた原稿の数が80を超えた時、編集委員会では「100いくかかもしれないなぁ」という会話がかわされたが、その予想を上回り120名の方から原稿をいただき一同感激。
  ぞくぞくと送られてくる原稿を最初に読めるのは編集委員の役得で、楽しく拝読した。
  編集作業は、予定より時間がかかったが、充実した時間だった。編集をしながら、あらためて日本語表記、特に縦書きの中の数字の書き方について考えさせられた。いろいろ議論があったが、一般論として統一した表記が難しいことが分かった。
  表紙デザイン制作の経緯は、原画提供者の成瀬さんの報告の通り。原画展については、万華鏡をイメージした表紙サンプルを見た編集委員の「原画のタッチなどがわからないのが残念」という感想から、「じゃぁ、原画展をやろう!」というのがそのはじまり。成瀬さんには、原画をはるばる大分から東京まで車で運んでいただくなど、迷惑をおかけした。会場のレイアウトなど紆余曲折はあったが、みなさんに楽しんでいただけてよかったと思う。

成瀬輝一●表紙デザインは、ホシみっつ
  表紙絵を頼まれて困惑。編集委員の大庭さんに、アルコール入りでご相談。メインタイトルは<あのころ万華鏡>…、オッ!彼にヒラメキあり。万華鏡のイメージで行きましょう。
  そうなれば簡単、描き溜めてあるスケッチをどんどん渡せばいい。世の中便利、大分から20数点をデータで送信。あとは彼がパソコン操作、センス十分、プリント入念、万華鏡めでたく完成。ホシ、みっつです。さて、一件落着と思いきや、七夕会会場で原画展をと、編集長のキツイお達し。なんとか額装原画18点を東天紅に運び、ご観いただきました。とても素晴らしいと過分な評価、有難いことです。皆さんに感謝。

榎本千鶴子●私の好きな山たち
  私、イラストは、描く人ではないのに、大庭さんに山の絵のカット、ちょっと描いて下さいよ、といわれて、ちょこちょこと描いたのでした。だから採用されただけで、うわー、載せてもらえたとうれしかったです。あの七夕会の会場でわざわざ前に呼ばれたのも、絵を飾ってもらっただけで充分でした。 成瀬さんの絵で飾られた表紙はすばらしかった。そして原画を見られてとってもよかった。大胆な線や繊細な線、両方があって色彩は濁らず、気持ちのいい絵でした。

木内一味●鳥人間、蛇鳥、人間動物、二面性を表す仮面
  私のささやかな喜びは神話、人間、動物の精神世界を表す原始芸術に囲まれていることにある。
  本年初頭、挿絵提出の下命があった。前世紀後半に奥地で入手した面や魔除け、聖像から数点を写生して提出した。すると翌日、さらに挿絵提出の要求がきた。私の文が味気なく説明の挿絵が必要と理解して、学園祭の舞台を出来る限り子供っぽく描いてやり直しとした。
  誤解させて巧みに人を動かす編集長のトラップに、二度も陥ったと今は思っている。

梨本昌子●ハワイ在住30年目の太い墨ペン
  イラストを描くチャンスを頂き光栄です。ハワイ在住30年目なので、ハワイの風物を中心にアブストラクト風も含めて20点位送りました。最初ラフにスケッチするときに使うかなり太い墨ペンを使ったのが私のイラストですので、他の方のイラストの線が細いだけに私の分は見つけ易いと思います。大きさは5センチ四方程度と言われたので、まず四角いサイズを作り、その中に描かなければいけないと思い込んだため、線が外に向かって伸び伸びと出ていけなかったのは残念です。でも、文章と私のイラストを上手く合わせたのはさすがと思いました。
  感謝感謝。アローハ!

松崎 喬●ゆるりとした人の営みが良いよねぇ
  旅には、描く機会がなくとも、スケッチブックを欠かすことはない。
  名所はめったに描かない。多くは平凡な景色、それも人の手が加わったもの。
   ボーッと見ていると見落としている景色の良さが、描いていると分ってくる。それが楽しい。部屋で描く絵はこのところ決って古い家。なるべくシンプルに描く。柱や框の傾きに時間が見えてくる。
  人物は描かないがゆるりとした人の営みが良いよねえ、制禦不能な原子力ではなく。

渡邊貞子●夫とはじめた共通の趣味
  絵を描くようになったのは主人の定年退職がきっかけで、二人の共通の趣味になればと思ってはじめたものです。もともと絵が好きだったとか、うまかったとかはないのですから。
  20年も前のことです。油絵から入って、今は日本画風のアクリル画を描いています。 イラストは描いたこともなかったのですが、少しでも私にできることがあるなら協力すべきとの思いで参加しました。