60周年記念講演
(株)丸井取締役社長 青井忠雄(新3回)
ー60周年記念誌よりー 


 後輩のみなさん、六中・新宿高校の創立六十周年、ほんとうにおめでとうございます。ただ今、ご紹介いただきました、新制三回、昭和二十六年卒業の青井でございます。

 六十周年というのは、人間で言いますと還暦を迎えたということになります。そういう意味では一つの節目となりますので、創立六十年の歩みをふまえて、これからは若いみなさんが中心となって、新宿高校がより一層の発展を遂げることを、心から祈念するものであります。

 お祝辞はそのくらいにしまして、過日私の二年先輩の佐藤先生から、実は六十周年記念講演というのがある、若い生徒の前で、ぜひとも私に話してもらいたいということでございました。しかレ、先程ご挨拶された高橋先輩(同窓会長)をはじめ、六中には有名な先輩がたくさんおられます。まだまだ私は六中・新宿高校の歴史の中では若輩の身ですから、ご辞退申しあげたいと思いました。しかし、考えてみますと、私はここ二十年近く新制を代表して朝陽同窓会の副会長をつとめさせていただいています。また、今PTA会長の福岡さんがお話しされましたが、私も福田さんとたまたま同期で、昭和二十年に都立六中に入学しました。途中、学制改革によって新制高校になった関係で、めずらしいことに、この学校に六年間在学したのです。つまり、あなた方の倍、学生生活を送り、そして倍もお世話になったわけですね。それから、私が社長をしております、クレジットでおなじみの、駅のそばの「丸井」ですが、みなさん方ヤングに人気があって、とくに新宿店は大変ご愛顧をいただいています。そんなわけで、私はどうも新宿とは切っても切れない関係があるのです。そこでこれも何かのこ縁ということで、少しでもお役に立てればと思い、この講演をお引き受けしたわけであります。

 さて、今日のお話は、やはり順序として、六中・新宿高校時代の想い出と、私の歩んでまいりました道をお話しして、その経験の中から先輩として後輩諸君に望むことをいくつか率直に申しあげたいと思います。

 ただし、社長業をやっていますと、ついお説教調になりがちでして、今日も最後には、新入社員に与える訓辞みたいになってしまうかもしれません。しかし、私の申しあげることをしばらくお聞きいただければ、少しはみなさん方のお役に立つことがあるのではないかと思います。



 まず、私の学生生活のあたりから話をしてみようかと思います。
 私が六中に入ったのは昭和二十年、つまり大東亜戦争の末期でした。当時は、入りたい人は全員無試験で入学できる時代でした。そして無試験で入学したのが、先程の福岡PTA会長であり、またこの記念講演を引き受けている私なんですね。これも妙な因縁のようで、罪ほろぼしの意味でもお話をしなければならなくなったのでしょう。しかし、無試験で入学できたのは、実は戦争がたけなわで募集人員に満たなかったため、全員合格ということになったわけであります。当時の学区制では、新宿をはじめ、中野、杉並区の子弟が多かったのですが、小学校で一番から三番くらいでないと、六中を受ける資格がなかったのであります。おこがましいことですが、私も中野に生まれ、桃園第三という小学校を総代で卒業しています。しかしながら、試験がなかった、ということで担任の野田真先生やほかの先生方から「お前らは、無試験だ、お前らは、無試験だ。」と、ことあるごとに言われました。そんなわけで私は、このオール・パス組という名の屈辱感で六年間を過ごしたわけなんですね。

 私たちの学年は三五〇人程で卒業は二十六年ですが、ざっと一五〇人が、東大、一橋大をはじめ、国公立大学です。そして一〇〇人が早慶へ進学、さらに残りの一〇〇人が他の大学や、あるいは家業をつぐとかその他の職業につく、ということで卒業しました。当時としては、どういうわけか、この無試験組が最高の実績を持っているのであります。それが決して偉いというわけではありませんが、無試験で入った、入ったと言われておるので、この機会に同期を代表して若干、弁明してみた次第です。それから、今私の目の前で写真を撮っておられる豊沢先生や、校医の渡辺洋望先生も、みな同期生で、いろいろ母校にご縁の深い卒業生が多いのも私の同期の特徴といえるでしょう。

 しかし、無試験で入ったせいで、残念ながらそういいことはありませんでした。現在のように女生徒が三分の一もいるというような共学は、私の二年あとから始まったのですね。私は共学に憧れておったのですけれども、実は最後まで男っ気ばかりの学校でした。大学は早稲田に入ったわけですが、無試験で中高を過ごして、早稲田の商学部に入ったというとあんまりいいイメージがないようなんですね。しかし優秀な先輩たちがたくさんいるんですから、決して、そんなにレベルが低いことはないと自負しております。

 旧制高校は私たちの少年時代の憧れであったわけですが、ちょうど我々のころになくなってしまい、楽しみにしておった修学旅行も、全然経験がないのです。大体、この六中というのは、あの当時は軍人の子弟が多かったようで、どちらかというと陸士とか海兵、幼年学校へ行く方が多かったのです。そんなわけで初代、二代目あたりの校長の時代は、勇ましい校風、軍国主義的な風潮が強かったと思います。

 新宿高校を卒業して三十一年になり、ちょうど私の息子や娘も大学や高校にお世話になるようになって、こうして皆さんのお顔を眺めていると、自分たちの時代との差に愕然とするのであります。同期の連中が集まると、今の後輩や学校のことが話題になりますが、私は麻布だとか開成、武蔵だという名前を聞くと、腹が立つんです。いつの目かね、ぜひぜひみなさんにガンバッてもらって、新宿高校の名声をあげてもらいたい。それが我々先輩の偽らざる気持ちなんです。日比谷とか戸山、西、青山などはときどきマスコミに名が出るんですが、どうもわが新宿は受験に関しては名前が出てこない。これは良いとか悪いとかは別にしまして、今でも新聞を見て目を皿のようにして、あなた方の先輩は大変関心をもっているんですね。どうぞ、そのことだけは頭に入れてほしいと思うんです。それから、こうやって講堂で話をしているんで思い出したんですが、入学式の時に生徒を代表して帽章を受けとったことがありました。皆は、青井、あいつはよくできるんじゃないか、と思っていたようですが、その後は実績が。パッとしないんで、後でみんなが、安心したよ、という話があります。それは実は、アイウエオ順だったんですね。当時もアイウエオ順で名前を呼ばれ、私は「アオイ」だからまっ先なんですね。今でも億えていますが数学のある先生が、「ア〜オ〜イ」などと妙な呼び方をするので、私も頭に来たもんだから、「ハ〜ア〜イ」と一度だけ答えたことがありますが、これは私なりに抗議をしておるわけであります。いやしくも人の名前を呼ぶのに、ちゃんと呼んでもらいたい、と私は言いたかったんですね。だから、私の学生時代は案外生意気な男で、そのころから、親父の商売を手伝っていましたので、世間を少しばかり早く知っていて、あんまり学生気分というのはなく、どちらかというと商人の息子という感じで学校に通っていたのです。

 私は、学科の中では、数学が大嫌いでしてね。それでいて担任の先生がいつも数学の先生で、いつも同窓会でお会いするんですけれど、なんて運の悪いことかと思いました。テストの時など、アイウエオ順の席ですから一番前でカンニングをしようがありません。試験といえば、学生生活でいちばん嫌なものですね。逆にこうやって話をしているのも、世の中へ出ての試験をされているわけですから、やっている本人は決して喜んでいるわけじゃないんですよ。

 特別考査というのがあって、一番から何番までかが張り出されまして、私など自慢じゃないけど張り出されたことがない。人間ですから一度ぐらいは載りたいと思っていましたが、今、考えてみると、載った連中はそれほどたいしたことはないんですね。つまり学校の成績がすべてだと申しあげるわけではないのですが、だからといって、年中落っこっていたら、経費がかかって親はたまりません。私は一つだけありがたかったのはストレートで行けましたから、この分だけは親に孝行したと思っています。

 ところで、私の学校生活では、なんといっても六年間通いましたこの六中・新宿高校というものが、一番想い出に残っています。また、私が教えを受けた、少なくとも学校で教えを受けたことについては、この学校が原点になっている、そう思っています。本当に優秀な学校を出た、エリートの学校を出させていただいたということに、いまだに誇りを持っています。我々同期の者も、先輩の方々も、みんなそう思っています。そして社会に出て機会あるごとに「おっ!おれも、おまえも、六中・新宿だ」というぐあいに、今の高橋先輩をはじめ多くの方々にはお引き立ていただいています。これは実に嬉しいことだと思うんですね。私はその意味でも母校であるこの学校に、本当に今でも心から感謝しているわけであります。

 人間、感謝しているだけでは駄目なんで、何かお礼を、ということで二つやっております。一つは、私は個人的に野球が好きですから、当社にも一万二千坪の硬式球場が花小金井にありますので、毎年夏の大会前には、わが後輩の野球部諸君にぜひとも頑張ってほしいという気持ちをこめて、練習に使ってもらっています。また、大会には必ず応援に行っています。三、四年前、いいところまで行きましたね。あの時は、残念でした。

 それからもう一つ。私は創業者である先代にたのんで、「青井奨学会」を十年前に設立しました。そして、学費のご援助をさせていただいています。その中に、必ずこの新宿高校を入れているのです。この奨学会には一年に一度集会がありまして、今年もたしか女生徒の方がお見えになっていました。私にとっても、何らかの形でお返しをしたいという気持ちで、やっておるわけです。



 さて、二十六年に卒業いたしました時に、私は大学へ行くつもりはありませんでした。といいますのは、私の親父というのは、古い型の頑固な商人でありまして、商人には学問はいらないんだ、大学なんてとんでもない、お前は何を言ってるんだ一笑う人がいるかも知れないけれど、いや、これはうちの親父が偉かったから申しあげているんです。ですから、私は非常にすなおな男でありまして、新宿を出させてもらえばもう結構だ、これからは商売を一生懸命手伝おうと思っていたんです。ところが、大学受験のシーズンになって、クラスの中で、私だけが願書を出していない。そこで当時の担任が数学の和田善一先生でありましたが、わざわざお出でくださって、私の母にあいまして、青井さん、あなたのところなんか、お店を盛大に張っていて経済的に困るわけじゃないのに、なんで学校に行かせないのか、というわけであります。そこで私の母が、親父には内緒で、とにかく大学ぐらいは受けておきなさい、やはり将来大成した時に、せっかく受けられるものを受けなかったというのは悔いが残るし、いささかコンプレックスを感じるのも良くない、すなおに受けておきなさい、と受験をすすめてくれたんです。そんなわけで、私は、どこにしようかと考えたわけであります。

 官立は、あまりできが良くないから、一橋なんかもちょっと無理だし、やはり新宿に近いということ、例の数学がないということ、慶応よりも早稲田の方がなんとなく自分の性にあっている、ということで早稲田の商学部を受けました。調べあげると、倍率はせいぜい二、三倍程度。ところがその年は運悪く、二十何人かに一人になってしまいまして、これは大変だと思いましたが、幸い一発で合格することができました。何年か前に早稲田の卒業式で、商学部の先輩としてスピーチをせよ、と言われて、あの大隈講堂でこんな形でやって参りました。私は自分で言うのも変ですが、本当に感激した一瞬でありました。また今日の、この機会を与えていただいたことも、私としてはありがたいことだ、としみじみ思うのであります。

 大学に通っている時から、すでに家業の手伝いをしておりました。私は三十五年に結婚しましたが、当時、家内に「丸井、などという名前は知らない」と言われまして、がっかりしたことを今でも憶えております。会社に入って十年間、私なりに頑張ったわけでありますが、運の悪いことに私が入社した三十年に、我が社に労働組合が出来ました。どうしても創業者はワンマン経営ですし、それに反
対する者もいたわけです。私の親父は商売は上手だけれど組合対策なんということはまったくわからん人で、怒り狂って組合の委員長をクビにしたり、ストを打たれたりしました。忘れもしません、三十四年の十二月、商人にとっての一番のかき入れ時の、一、二、三日と三日間、全面ストライキがありました。まあ、五年ぐらいで労使関係は健全なものになりまして今日まで続いておりますけれども、私はこの組合間題にまっ正面から自分でとり組んだ為かけで、人の裏表など淋わかったり、また、お客さまの気持ちもよくわかるようになったと思います。

 しかし、今振り返ってみると最初の十年間というものは、やはり成功も多かったけれども、失敗も非常に多かったのであります。一つだけ良かったのは、月賦という言葉のひびきが悪いから、三十五年にクレジットという表現を使ってイメージチェンジをやり、これがヒットして今日では日常語になるほど広まっています。そんなことも、私が長い間宣伝を担当していたからできた一つのご褒美みたいなものでしょう。

 実は、私は若いころは生意気で、ヤマッ気が多かったんです。二代目だけれども、なんとか親父の鼻をあかしてやろう、ということで、三十七年にアメリカヘ勉強に行って来て、クレジットとは全然関係のないスーパー方式の店を手がけたわけであります。新宿でやりましたが、二年で見事失敗しました。大変な赤字を出しまして、それまでは飛ぶ鳥を落とす勢い、というか、わがままな私でありましたが、すっかり意気消沈して一年ぐらいノイローゼ気味になったことがあります。親父には責任を糾明されるし、世の中がみんな自分より偉く見えてきました。最後は、一ケ月ぐらい家に閉じこもるようになって、何度も会社を辞めようとか、死のうとか、今考えると不思議なことですが、そう思った時期があったんです。しかし、その時に考えに考えた結果、ふっとふっ切れましてね、やっぱり甘えていちゃ駄目なんだ、俺は二代目だからということで親父に頼っておった気味もある、そして非常にわがままだった。その親父が作った仕事の、まったく正反対なんかを、まだやるべきではなかったんだ、本業のクレジットも究めないで何がスーパーだと、そう思ったんであります。それからはまったくすなおに、親父の昔やってきたことを研究しよう、ということになったわけです。

 私がそこで得た教訓は、悩みに悩み、考えに考え、やっと自分に打ち克つことができたのだ、ということです。それ以来、私は本当に迷わなくなりましたし、現在でも、どんなことがあってもへこたれません。−私はあの三十九年時代のことを今でも思い出しますけれども、その一年間の失敗したつらさで悩みに悩みぬいたこと、それが、私にとって幸せなことだったと思っています。きっとあなた方も、いつかは挫折する時があります。どうぞその時は自分に負けないでくだい。どんな苦境のときも、自分と戦って打ち克たなければ、負けてしまうと思います。私は、あの時になんとか自分に少しでも克つことができた、それが、わたしなりに納得できたのであります。つまり、これは自分自身の納得の問題ですから、その時はもう親も家族もない、やっぱり自分は自分だ、自分に甘えちゃいかん、自分に打ち克たねばいけない−これが私の結論でありました。

 その後、四十年から営業本部長になり、陣頭指揮をとって会社を大改革していきました。いろんな新しいことを導入したり、実によく働いたと思います。四十七年に三十九歳で社長になりました。そして五十年の時に先代の社長が亡くなり、その二年後におふくろも亡くなっています。ですから、今はもう完全に私がオヤジという立場で、会社の経営をさせていただいているわけですけれども、今日このように続けておられるというのも、あのつらかった一年、あのスーパーの失敗−そして枝葉じゃないんだ、本業をもっともっと究めようと考えたことであります。そして私は、与えられたクレジット販売ひと筋に生きているのです。

 最近、世の中景気不振でありますけれども、私どもでは、この本業のクレジットを究め、そのノウハウを活かしたサービス部門が好調で、他社の業績をしのいでいます。こう言っては失礼ですけれども、小売業界では代表的な、かって我々が仰ぎ見ていた存在であった会社が、今や不振にあえいでいます。やはり時代時代で栄枯盛衰があるものだ、ということを痛感しているわけであります。



 さて、時間もそうございませんから、ここで後輩のみなさんに、私が望みたいことを五つほど申しあげて、私の責任を全うさせていただきたいと思います。

 まず最初に、私、やっばりみなさんにこれだけは言っておこうと思うんです。どうぞね、先輩に負けないで、みなさんの力でもう一度、昔の栄光をとり戻してもらいたい−私はそう言いたいんです。あなた方はどうやら負け犬になっているんじゃないか。なにしろ、私は別としても、先輩には優秀な人がいっばいいます。私の場合も、すごい親父のもとで非常にやりづらかったのです。あなた方も優秀な兄貴やお父さんお母さんのもとでは、大変だろうと思いますが。

 いま必要なことはチャレンジ精神−挑戦する気持ち、これをいつも持っていて欲しい、と思うのです。これからあなた方は大学の受験などもあります。自分の行きたいところに行けずに挫折することもあるでしょう。だけど、やはり「何くそ!」という精神、「何を!」という気持ちは、絶対みなさん方に持っていてほしいと思うんです。今の方は、ちょっと利かん気が足りないように思いますね。

 それからいま講演していても気がつくことだけれども、礼儀作法ということを、みなさんは知っていないと思いますね。しゃべる方にもちゃんと聴かせる責任がある。しかし、聴く方にだって礼儀があるんです。初めから聴く態度がなければ、私は話す必要はないと思います。これは学校の先生がなかなか言わないことです。私は式典でステージに登った時、なんと礼儀を知らないのか、と思ったん
ですよ。残念です。あなた方が壇上で話してごらんなさい。話す方があなた方の態度を見たら、腹が立って帰りますよ。私は頼まれて講演にうかがったんだから、あなた方だってちゃんと聴く義務があるし、私だってちゃんと話をする義務がある、と思うんですよ。さすがに校長先生はおだやかに「セレモニーにはセレモニーのエチケットを持ってやれ」と言われました。今一番足りないのは、先輩が先輩としてしっかりしていないこと、そして怒るべきことは怒る−これがやられていないことだと私は思うんですよ。 さて、次に言いたいことは、特徴を出せ、ということです。自分の得意なもので勝負してください。私は数学が嫌いでしたが、また別に好きなものがあるわけですから。自分の好きなもので勝負する−あなた方がどういうふうに将来を選ぶかわかりませんけど、私は他人は他人、他人のことを絶対羨ましいとは思いません。他人は他人、俺は俺なんだ−それが早稲田にもつながったのかも知れませんが、私の書いたいことは、自分というものをしっかり持った人間が立派になれるんだ、ということなんです。だからどうぞ、得意なものをすなおに伸ばしてゆく、究めてゆくことーそれが一つの武器となって、世の中を勝ち抜くことが出来るんだ、と思います。 さて、三番目。私は、これは、いつも社員や幹部諸君に社長という立場で言っていることなんですけれども、センスのいい人間になれ、と。いうことです。センスー感度の良い人聞。センスというのは、これは三島由紀夫さんがうまいことを言っていましたけれども、相手の気持ちを読みとることだ、と言うんですね。だから、ぼくは、あなた方はセンスがないと思うんです。講師の気持ちも、学校長の気持ちも、そして今日が記念すべき六十周年の式典である、ということも、全然わかってない。そんなことでは、大学なんて行ってもしようがありません。人間としてやるべきことをやってない、というのは一番いけないことなんです。親しき仲にも礼儀ありといいます。ほんのわずかな時間ですから、礼をつくしてちゃんと承る、そういう相手の気持ちを読みとることができなくて、どうして大成できるのでしょうか。どうぞひとつ、相手の気持ちというものを、よく考えてください。自分がその立場になったらわかるんですよ。今から予言しておくけれども、次の十年、二十年後にこの壇上に立って、あなた方の誰かがやってくれるでしょう。そしてその時、駄目だったら後輩を叱喀激励していただきたい。私はそういうセンスのある人間にあなた方がなってほしいと、思うんですね。 さて、四番目であります。これは親から教わったことです。私の父は、ほんとに偉大な父だったと思うし、偉大な創業者であり先代社長だったと、今でも思っています。自分の父親を誇れるなんて、こんな幸せな人間はない、とまで思っています。その父がよく言っていました。

 「お前ね、人間なんて考え方次第なんだよ。上を見ればきりがない、また下を見ればきりがない。不幸だなあ、と思ったら、不幸なんだよ。しかし、幸せだと思ったら幸せなんだ。だから、たえず明るく前向きに考えて、世の中を暮してゆくようにしなさい」−と。私も喜怒哀楽のはげしい方で、気の滅入る日もありましたが、そんな時、なにかにつけて父は言ってくれていました。

 私は、よく、親父や兄弟なんかも入れて、夜中まで喧嘩したものであります。今、振り返ってみると、悪いことしたな、と思うことなんですが、現在、息子や娘たちと議論をしたり喧嘩したりして、ヘコまされて、非常に不愉快な思いをして、やっと今ごろ親父の気持ちがわかってきたんですけどね。ただ私はひとつだけ親にいいことをしたと思うのは、いろいろ議論をして、最後には親父をボロクソに言って、親父の機嫌が悪くなっても、やっぱり最後には「親父のおかげだ、親父は偉いんだ」ということを、ゴマスリじゃないけれども、面と向って真剣に言ったことを憶えています。そのくらい親しき仲にも礼儀あり、と言いましてね。やっぱり、あなた方が親になればわかりますが、娘や息子たちにくだらないことを言われて、喜ぶ親はいませんよ。

 子供というのは損得で育てているわけじゃないんですからね。心のうちでは淋しいんです。だから私の経験をふまえて、明日からはこ両親に対しては、言うことを全部聞かなくてもいいですが、たまにはしんみりと、親に世話になってる、ありがたいんだ、という気持ちをすなおに言える人間になってもらいたいんです。それが人間の道ですよ。それが子供としてのエチケットですよ。こういうことを、私は自分の経験で申しあげたいのです。

 さて、最後に、これは私が一番言いたいことです。今の方々に、我々とちがって欠けているものがひとつある。それは感激や驚きではないでしょうか。世の中、豊かになったものだから、感動がいささか欠けているんじゃないかと思うんです。人間というのは、どんな時にでも、感激性のある人間−良かったら、ああ良かった、たとえば映画をみて本当に泣けてくる、人情の機微がわかる、という
くらいじゃないと駄目です。それから新しいものを見た時に、あるいは新しい場所に行った時に、何も外国だけじゃありません、日本津々浦々をまわって、こういうものを見た、あるいはこういう本を読んだ、驚きだ、感激だ、発見がある、と。こういうところから次の発想や行動が生まれると、ぼくは思っているんです。だから、感激を忘れた人間は不幸ですよ。何をやっても面白くない、こういう時期が、私の悩んだ一年間にはあったんです。世の中のものがみんなつまらなく見えてね。逆にまわりがみんな偉く見えて。もう、なんて自分はみじめな人間なんだろう、と、そういう一年がありました。やっと正気になった時に、ふっと女性を見て、はじめて、あ、女のひとっていうのは美しいな、なんて思ったんです。だから、人間は感激、鷲き、というものを忘れてはいけない、と私はそう思っています。

 いよいよ最後に、私がもうひとつ言いたいこと、これは今までに何べんも申しあげていることですけれども、私は感謝の気持ちというものこそ、今の人に一番欠けていることだと思うんです。人間、感謝の気持ち、お世話になったからお返しをしよう、くらいの気持ちがないといけません。他人がしてくれるのは当たり前だ、なんて、そういうものじゃないと思います。

 さっき少し厳しく言ったものだから、みんなシーンとしてきましたけれども、丸井の入社式なんて、もうビシッとして大変ですよ。ボンと押したらみな倒れちやうほど、コチコチでね、直立不動ですよ。ああ、新入社員もこんな態度だったんだな、と今日その実態を垣間見たわけですが、まあ今からでもおそくはありません。次の行事の時から、みなさんきちっとした態度で、先生の話を承るくらいの感謝の気持ちがないといけないと思います。とにかく自分がなってみればわかるんですね。自分が教師になって、なんにも聞いてくれなかったら残念でしょう。こういう私も聞いていなかった時だってありましたがね。だから、いま先生の気持ちがわかるから、今日のおめでたい席で、悪かったけど鷲かしたわけですよ。

 最後にもう一度申しあげたいことは、人間常に感謝の気持ちを持った人であれということ、そしていつか何かの機会に、この母校にお返しをしてください、ということです。みんな、みんな、この新宿高校を愛しているんですよ。本当にそうです。さっき、ぼくはPTA会長の福田さんの話を聞いても、あっ、良かったな、別に打ちあわせしたわけじゃないけど、同期というのはいいものだな、学校を愛する気持ちはいっしょなんだなと思ったんです。もう一つ私が感謝していることは、我々はいい先輩に恵まれたことです。この輝かしい六十年を迎えることができたのは、これはもうみんな先輩のお蔭なんですよ。そして関係者の方々のお蔭なんですね。 私は本当にこの六中に入って、今でも良かったと思っています。当時は、六中と十中(西高)がありました。私は昔から引込み思案の面がありまして、十中で我慢しておこうかと思ったけれども、その時にはめずらしく親父が、「お前、一番いいとこへ行け」と言ってくれたんです。このひと言で、六中になったんです。私は、新制の校歌は歌えないんですが、あの「東西古今たぐひなき……」という六中の校歌と、「六中健児の歌」、これを聞くと涙が出るほど、昔を憶い出すんです。



 今日は、本当に嬉しい六十周年の記念式典に私が指名されて、感激のスピーチをすることができましたことを、感謝しております。どうぞ後輩のみなさん、この輝かしい伝統を生かして、ますますご精進されることを心から祈念いたしまして、ささやかではありましたが、私のつたない講演を終らせていただきます。今日は、本当に、ありがとうございました。