OB/OGのエッセイ 〜思い出の新宿高校〜

最終更新日:2001年3月8日

新宿高校出身のOB/OGに在学中の思い出などを書いていただくコーナーです.思い出のみならず新しい企画も予定しています.



新第15回生 井手 峻(中日ドラゴンズ)

 前回の筆者が全く同世代の新第15回生佐藤さんなので、新宿高校についての印象や在学中の出来事は殆んど共通していると思いますが、私なりに自分の高校時代の思い出を書いてみます。私は小学生の頃から野球狂いで、高校で始められる硬式野球にあこがれていたのですが、当時の新宿高校は進学最優先の学校でしたから、親は硬式野球部に入ることなど認めてはくれませんでした。でも、硬式ボールで野球をやってみたいと言う気持ちは募る一方で、入学後二ヶ月ほど経って野球部の部室を訪ねました。その時に部室の前で着替えをしながらにこやかに新入りを迎えてくれたのが我々の代のキャプテンでした。親に逆らってでも野球部に入ろうかどうかと迷っていた私をすっと包み込んでくれるような笑顔で、それに誘われて私はそのまま野球部に飛び込み、以来、一生野球から離れられない生活を続けています。彼とは、新婚で住んだアパートが一緒だったり、彼の息子が投げる高校野球の予選を長崎で一緒に見たりとか、高校卒業後もずーっと付き合い、そして先に逝ってしまいましたが、その時の笑顔は私の脳裏から消えることはありません。不謹慎かもしれませんが最近では、彼も含めて真に才気溢れる悪童だった山岳部のHとか、真に善人だった水泳部のAとか、溌剌とした印象を残したまま早く逝ってしまった同窓生が羨ましい気もしています。
 私の高校生活は昭和34年の春から昭和37年の春までですが、3年間青春真っ只中での印象と言えば触っていれば楽しかった硬式の野球ボール、屈辱的な定期試験、そして競争倍率の高かった女子学生ということになります。でも野球部の同期4人は学業の方はやゝおちこぼれでしたが、女子学生獲得競争には真面目に勝利を収めて私を除く3人が同窓生と結婚しました。また、校外で印象に残ることといえば、佐藤さんも触れていましたがやはり60年安保で、私も1度だけデモに参加しました。「デモ行進では男女交互に腕を組むんだぞ」と誘われて面白半分で行ったのですが、その日があの騒乱の中で一番激しい日でした。最初の内は「おーい高校生良く来た。がんばろうぜ。」とか声をかけてもらって気楽に行進をしていましたけれど、国会議事堂に近づくにつれて異様な雰囲気になりました。右翼の殴り込みで頭から血を流した人が介抱されていたり、議事堂前の座り込み隊が激しい放水を受けていたりで「これはやばいぞ。」という感じです。この日、樺美智子さんが亡くなりました。その後、私は尻尾を巻いて野球に戻りましたが、右翼や警察に対する激情はなかなか消えませんでした。気軽に参加したはずの集会に急速にのめり込んでしまう落とし穴の一つを見たような気がします。
小学校時代の家庭教師に中学生になって再会した時に、「高校,大学の友人は一生の友になるから、そこで友人をたくさん作っておきなさい。」とアドバイスされたことを妙に覚えています。その時はそんなものかなと思っただけでしたが、還暦も間近になった今それを実感します。すばらしい世話役にも恵まれて、我々の同期はいろいろの機会に集まっています。私は名古屋住まいが長いのでなかなか集まりに出られないのですが、案内をもらえるというだけでうれしくて、またあいつらわいわいゴルフをやっているなとか、やかましく飲んでいるなとか想像して楽しんでいます。
 現在の新宿高校が進学第一の有名校でなくなったのは分かります。けれど、何か「新宿」ここにありというものが欲しいと思うのは私だけではないでしょう。さいわい我が硬式野球部は我々の時代より確実に強いので、後輩達には甲子園を夢と思わず真剣に狙って欲しいと願っています。


男女共学の恩恵


 新第15回生 佐藤一子(東京大学大学院教育学研究科教授)

 手元に「都立新宿高校第15回生名簿」(平成5年5月現在)がある。1988年に卒業25周年の盛大な同期会が開かれ、それをきっかけに熱心な幹事の方々が連絡をとりあって作成してくださったものである。名前と顔が一致しないながら、25年ぶりに集まった156人の旧友とひとときを過ごし、貫禄のある雰囲気のなかに昔の顔が蘇ってきて、旧交をあたためることができた。その後同期会は継続している様子で、時折便りにふれることはあるが、多忙にかこつけて以来ごぶさたをしてしまっている。同期の青柳政規文学部教授が東大の副学長に就任されてまもなくある会議で同席する機会があったが、なんだか照れくさくて「お久しぶりです」と言っただけで、その後お話する機会もない。年賀状を交換しているごく少数の旧友を除くと、私にとって高校時代のことはかなり遠い過去になってしまっている。
それでも教育学を専攻していることから、都立高校の再編のニュースなどを通じて新宿高校に思いをはせることはある。どちらかといえば当時の校舎のくすんだ色そのままに心象風景は明るいとはいえない。しかしビートルスのメロディが重なり、皆ひたむきに何かを探して歩いていたような前向きの感覚がある。
 私の入学年度は1960年安保の年であった。東京目黒区の田園風景の中にある田舎っぽい中学校から進学した私にとって、新宿は大都会であり、集まってきた生徒たちはあか抜けていてとても大人にみえた。その大人っぽい同期生の数名が5〜6月には安保のデモにでかけ、校長から厳しい小言を受けているのを聞いて、こうした世界をのぞいたことがなかった私自身との落差を強く意識したことを覚えている。
当時の新宿高校にはまだ旧制中学のバンカラな雰囲気が残っており、先生方も私たちを大人として扱ってくださったように思える。東大の駒場に進学してそこで過ごした2年間とともにひとつながりの青春の時代であった。中学では相当の女ガキ大将だった私にとって、多才な勉強家たちと共に男女共学のもとで過ごすことができたのは、新宿高校から与えられた大きな恩恵だったと今にして思う。(現在の私立進学高校や一部の県立高校が男女別学であることは、とても気になる問題のひとつである。)
中間、期末試験のあとの休みにはしばしば十数名の男女グループで奥多摩にハイキングにでかけた。一年生の夏の房総臨海合宿、二年生の尾瀬縦断、谷川岳登山等の寮生活もその延長にあって本当に楽しく、男女共学体験として忘れがたい。文化祭では夜遅くまでファイヤーの周りでフォークダンスに興じた。結局トレッキングは生涯の趣味となった。
 恐らくは旧制中学とも異なり、その後の教育大衆化時代の高校生とも異なる、戦後しばらく続いた公立進学高校における青春体験だったといえるのだろう。Boys, be ambitious !というほどのフロンティア精神ではないにしても、Boys and girls, be collaborative ! というジェンダー観は、まちがいなくこの時期に私の日常意識に刻まれたと思う。